新仮名遣いと旧仮名遣いの最近のブログ記事

基本的には統一を

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添削:
「虚と実を行き来するやうな日暮らしを如何にとかせん 陽はまた昇る」(すずむし)
 
添削ありがとうございました。何気なく使っている文字の意味がはっきりしてきて、嬉しくなります。また、口語、文語が入り乱れてしまうのですが、統一した方がいいのでしょうか?口語はともかく、文語は恥ずかしいのですが、正直、いい加減です。不慣れで、耳にうろ覚えの状態で使ってしまうので・・・ 如何にとかせん と直していただきましたが、如何にとやせん ではおかしいでしょうか?

一首の中で文語と口語が入り乱れるのは見苦しいですね。どちらかに統一したいものです。お一人の人が、ある時は文語短歌を、またある時は口語短歌を詠まれることは構いまいませんが、一首としてはどちらかに統一をしましょう。文語に自信がなければ口語で通されるのも一法ですね。本格的に深く短歌をやられるおつもりなら、文語文法もある程度は勉強されるとよいでしょう。なお、「如何にとやせん」は、文法的にミスはありませんが、こうはあまり言わないですね。

横から入りまして恐れ入ります、なぜ甦りおりは甦りたりがいいのでしょうか?それと赤とんぼの群れは赤とんぼ群れてがいいのでしょうか?よろしくお願いします。(随真筆)

ご質問があったようですが、

元歌:「休耕田は甦りおり黄金波(こがねなみ)に赤とんぼの群れダンスを踊る」(りこりこ)
添削:「休耕田は甦りたり黄金波(こがねなみ)に赤とんぼ群れてダンスを踊る」(りこりこ)

について、添削では「たり」とすることできっぱりとすることと、感嘆の念がいくらか出るということ、また「群れ」(名詞)ではなく「群れて」(動詞の連用形)とすることでトンボの躍動感が増したわけですね。短歌では全体としての語の流れや音感も大切です。
なお、旧仮名なら「おり」は「をり」、「群れ」は「群」ですね。特に、「おり」は新仮名とも旧仮名とも言えない半端な用語です。「お」は新で「り」は旧だからです。

「残す」は四段活用の動詞

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「子の残せし学習ノートの余白には住所録あり亡夫の癖字で」(りこりこ)
昨日、 本棚の隅から子供が小学生だった頃のノートが出てきて白い所が勿体ないと思ったのでしょう、住所録になっていました。 下手な癖字も懐かしくて、しばらく見てしまいました。よろしくお願い致します。                

「子供が小学生だった頃」とありますが、30年も前のことでしょうね?それは懐かしいでしょうね。 お子さんのノートの余白がもったいないと、ご夫君がそこを住所録に使われた・・それほどに倹約の精神を持っておられた・・・。 それよりも、ご夫君の癖字が懐かしかったと。なるほどね。なお「残す」は四段活用の動詞ですから「残せし」ではなく 「残しし」(「残す」 の連用形「残し」に、過去(回想)の助動詞「き」の連体形「し」が付いて)です。実際、ちなみに終止形なら 「残しき」で、「残せき」 とはならないですね?

添削:
「子の残しし学習ノートの余白には亡夫の癖字で住所録あり」(りこりこ)

漢字の使い方

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天城路に木々の芽吹きの音聴こゆ、たゆとう光りに山動き出す」(宋見)
光りあふれ木々に芽吹きの音を聴く天城は浅き春にざわめく」(宋見)
2月末、天城峠を越えると伊豆の海からの光りが鮮やかに山を照らし、木々の芽吹きの音が聴こえてくるように感じます。冬の眠りから山が目覚めのときを迎え、風にざわめいています。浅春の天城越えの楽しさです。

天城山と聞けば国定忠治を、また天城越えと聞けば同名の演歌(唄・石川さゆり)を連想しますが、そういうことがなくても名所なのですね。添え書き自体が大変詩的になっています。なお、前に別のところで書きましたが、「光り」の「り」は不要です。「光りて」とか、連用形として使う場合は別ですが、ここでは「ひかり」という、完全に普通名詞化した語ですので。「芽吹き」の「き」も、旧仮名短歌なら不要です。新仮名短歌なら、この語はまだ十分には普通名詞化していないと思われますから、普通「き」を残しますね。「芽吹き」。こういう時だけ口語新仮名でも旧仮名を転用するところなど、面白いですね。新仮名では「芽吹く」の連用形は「芽吹い(て)」で、語尾は「き」ではなく「い」ですから。動詞の連用形を名詞化して使う際に、口語にも旧仮名遣いが残っていますね。)なお、「聴こゆ」ですが、「きこゆ」は自然に聞えてくることですね。そういう場合は「聴」の字は適当ではないでしょうね。これは注意して聴く場合に使われる漢字ですから。「見る」と「観る」の関係のような。二首目でも「きく」とありますが、やはり自然に聞えてくることをそう言われたものですから、「聴」よりは「聞」でしょう。

添削:
天城路に木々の芽吹の音聞こゆ たゆとう光に山動き初む」(宋見)
添削:
光あふれ木々の芽吹きの音を聞く天城は早き春にざわめく」(宋見)

二首目は、注意して芽吹きの音を聞かれたものとすれば・・・
添削?2:
陽を浴びつつ木々の芽吹の音を聴く天城はすでにざわめきて春」(宋見)

向かい家の電話のベルの止まざりてなんだか寂しく思える真昼」(お仙)
私の住んでいる団地は、あまり物音のしない団地です。特にお昼時は。そんな時、前のお宅から電話の音が聞こえてきました。ああ、お留守なんだと思いつつ、受け止める相手のないベルの音が虚しく聞こえました。

「止まざりて」とは?旧仮名にしても変ですし、ここだけ旧仮名というのはいただけません。一首の中での新・旧仮名の混交は避けたいものです。読んで必然性が感じられる場合はいいでしょうが、ただ野放図な混交は止めましょう。団地は静かなものなのですね。電話機の音が目立って聞こえるくらいに。電話が鳴っても出る人が居ない・・・ただ空しく鳴り続ける。(心象的にも)寂しい風景ですね。

添削:
向かい家の電話のベルが止まなくてかえって寂しく感じる真昼」(お仙)

「瞼閉じ君を想いし弾くピアノグノーのマリア静に微笑む」(月あかり)
彼と逢えないけれど、もしわたしがアベマリアを弾いたなら喜んでもらえると想う。マリアも静に微笑んでくれるでしょう。

アベマリア(Ave Maria)のアベは元々は「こんにちわ」「さようなら」といった挨拶ですね。マリアはもちろん聖母マリア(イエス・キリストの母;処女で懐胎したとのことですが)。聖歌・アベマリアは「聖母マリアへの祈り」の歌ですね。名曲として一般的にも弾かれるようですが。歌詞は共通で、シューベルト作曲、グノー作曲、カッチーニ作曲などあるようですね。ここではグノー作曲のアベマリアを弾かれた・・・。お作で「君を想いし弾くピアノ」という語法は時制の上でよろしくありません。「想いし」は過去形ですからね。そうであっても、時制云々以前の問題として、「想いし」という書き方は頂けませんねぇ。「想い」は新仮名で「し」は旧仮名ですからねぇ。新仮名なら「想った」、旧仮名なら「想ひし」ですね。もちろん、これらは過去形という意味では、この歌では共にまずいのですが。「想ひて」(旧仮名)か「想って」(新仮名)ですね。また、「瞼閉じ君を想いし弾くピアノ」とは、目をつむったままピアノを弾かれたのでしょうか?目をつむって「君」を想った、ということかな。また「静に微笑む」の「静に」もミスですね。「静かに」で、(旧仮名でも)「か」は省かない方がいいでしょう。それに、アナタが弾くピアノのアベマリアに「君」が微笑むのですか?それとも添え書きにあるように、「マリア」が微笑むのですか?以上のように、このお作はめろめろに乱れております。今のアナタの心がそのまま反映しているのかもしれませんが。ご投稿はそれなりに公表することでもあります。そのことをご念頭に、改めて詠み直して下さい。詠み直し、あるいは推敲も勉強になりますよ?

旧仮名の合う歌

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「年輪のような襖の下貼りの埃を払い胸躍らせる」(実華)
古文書調査は埃との戦いです。市から委託された旧家の襖は新聞紙や反古紙等何段にも貼ってあるのを丁寧に埃を払いながら剥がしていきます。いつ頃(何年)のどのような古文書が出てくるかワクワクします。

そういうお仕事ですか。それは困難なお仕事ですね。そういう古文書ですと、書かれてある文字も草書体か何体かもわからないようなものもあるのでしょうね。解読が大変ですね。お作ですが、初句「年輪のような」だけでは却って誤解されそうです。これは旧仮名の合う歌ですね。

添削(旧仮名):
「古襖下貼り重なり年輪なす埃払ふさへ胸の躍りて」(実華)

「新しき色をほどこし粧へば見慣れた顔のやわらかくなる」(恭子)
久しぶりに新しい色の化粧品を買いました。色自体はダーク系ですけど、別の色で初めて化粧をする時は、何時も気分が浮き立ちます。普段の仏頂面も、何となく、微笑んで見えます。

これは鏡に向かって化粧している図ですね。顔が主体ですから髪の毛ではなく、口紅ですね?

(旧仮名):
「新しき色をほどこし粧へば見慣れし顔のやはらかくなる」(恭子)

(新仮名):
「新しい色をほどこし粧えば見慣れた顔がやわらかくなる」(恭子)

何時も添削有難う御座います。今回はアイシャドウとチークでした。口紅を変える時も、気持ちが変りますね。

先生に教えて頂きたいのですが、「えば」と、「へば」の使い方の
違いが判りません。ネットで色々調べたのですが、旧仮名、新仮名
以外でも、両方での使い方があるようです。
私は以前から、混乱を起していました。私自身は、「歌へば」とか
使っていました。
先生の短歌教室の5段活用を拝見すると、この場合は「え」となっていますよね・・・
区別は何なのでしょうか??本当にバカな質問で申し訳ありません。。

「えば」と「へば」の区別、ということではありません。「・・ば」は文語(旧仮名)なら動詞の已然形に付きますね。「粧ふ」(よそほふ)はハ行四段活用の動詞ですので、その已然形は「粧へ」で、それで「粧へば」となるのです。一方、新仮名(口語)なら「・・ば」は仮定形に付き、「粧う」(よそおう)はワ行五段活用の動詞であり、その仮定形は「粧え」なので、「粧えば」となるのです。なお、本添削サイトでは、(短歌の品格を保つためと、言葉の乱れを促進させないよう)一首の内では旧仮名か、新仮名のどちらかに統一することを旨としています。世の中、新仮名と旧仮名が(一首の内で)入り混じった短歌が多いことは承知していますが。これは一種の日本語の乱れだと思っています。言葉が生命の短歌では避けるべきでしょうね。もちろん、旧仮名短歌でも、新仮名を部分的に使うのが自然である場合もあるし、逆もあり得ますね。それは意識的に、ある種の効果を期待したときですが。そういう例外はあっていいとしています。(旧仮名短歌でも、会話部分は口語でもいい、とかですね。)新仮名短歌であっても、旧仮名が慣用されている言葉は旧仮名でいいとか、色々です。(例:「(今は)亡き人」など。)

サ行五段活用動詞

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「私まで届いた歴史思うなり父の遺せし著書を読みつつ」(アン)
私の父は63歳で逝きました。死の直前に出した「枯草露滴」という本を読んで行くと若い頃にはわからなかった父の仏の教えを聞いてくれという思いがとにもかくにもこの私にまで伝わってきました。

ご父君の著書<枯草露滴>は随筆でしょうか、日記でしょうか、あるいは自分史でしょうか。お父さんの言葉といわれる「仏の教えを聞いてくれ」の意味、我々にはちょっと解かりませんが、きっと尊いお言葉なのでしょう。作中の「歴史」もちょっとあいまいかも。一言で表現するのは困難なのかもしれませんが。なお、全体としては旧仮名の短歌なのでしょうね?新旧が入り混じっていますが。「遺す」はサ行五段活用の動詞ですから「し」は連用形「遺し」に付きます。

添削(旧仮名):
我が身まで届きし歴史を思ふなり父の遺しし著書を読みつつ」(アン)
添削(新仮名):
「私まで届いた歴史を思ってます父の遺した著書を読みつつ」(アン)

「胸までの稲穂掻きわけ稗を刈る媼は露に濡れるを厭わず」(比叡)
稲の間に生えている稗を刈るため媼は露の降りた田圃に入りて露に濡れながら作業をしてしていました。農業の仕事の忙しさ、辛さを目の当たりに見ました。宜しくお願いします。

この場合、稗(ひえ)は夾雑物以外の何物でもないわけですね。刈り除く作業は大変そうですね。

「胸までの稲穂掻き分け稗を刈る媼は露に濡るるを厭はず」(比叡)

添削の「濡る」の活用について「濡れる」としましたが添削では「濡るる」と御連絡いただきました。「るる」は連体形 になりますがこの辺よく分かりませんのでお教えください。

元歌の「厭わず」(厭はず)は旧仮名ですね。それで、これは旧仮名短歌と判断しました。すると「濡れる」という語法はないわけです(新仮名になるので)。「濡るる」はおっしゃるように「濡る」の連体形です。「濡るる(の)を厭はず」あるいは「濡るる(こと)を厭はず」ですね。()内の体言はしばしば省略されます。「濡る」と終止形にしてしまいますと、ここで一旦歌が切れるわけですが、この場合は明らかにまずいですね。目的語を取る「を」に続きませんから。

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