総論としての最近のブログ記事

しらかばにはなみずきにたんぽぽは美しく咲く銀行の名前 (随真筆) と
しらかばにはなみずきまたたんぽぽが美しく咲く銀行の名に(添削歌)
ですが 「また」と使用するのは「に」を2回使用してはいけないという意味だと思いますが、「銀行の名前」が「銀行の名に」の解説をお手数ですがおねがい致します。(随真筆)

銀行の名に美しく咲いている、ということです。「名前」で切る(終わる)より余韻もありますね。

有難う御座います、いわゆる体言止めは出来るだけ避けたほうがいいということですね?(随真筆)

この歌では上に述べたようなことです。体言止めが自然な場合もあり、実際体言止めで成功している歌は結構あります。短歌は、何ごとも一首ごとに、一首全体として判断すべきものです。誤解なきように・・・。

散文的?

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昨年の台風による塩害か庭の桜も咲くのは少し」(ゲンさんちの猫)
この季節例年ですとたくさんの花が咲き春にはさくらんぼが実る庭の桜の木ですが、昨年の台風による塩害の為か今年はほんの少ししか花が咲いていません。さくらんぼも今年は期待できそうにありません。
前回は、自分の目に見えているものが他人にも見えていると錯覚し独りよがりの歌になったようです。その反省の上で状況が伝わる様に詠ったつもりですがいかがでしょうか。宜しくお願いいたします。

「自分の目に見えているものが他人にも見えていると錯覚し・・・歌」を作るのは初心の人に共通の現象ですので、あまり気にされないで下さい。今回のお作は、そのことを気にされ過ぎてか、散文的になってしまいました。短歌としての(定型の)節調、語の流れ、音感、語感・・・が求められます。

添削(改作):
台風による塩害が残るのかさくらんぼ用の桜も不調」(ゲンさんちの猫)

添削有り難うございます。
短歌教室は最初から目を通させて頂きました。
しかし、先生にせっかく添削して頂きながら十分理解できないでいる自分が不甲斐ないです。
そこで散文的にならない為のポイントなどありますでしょうか。短歌としての(定型の)節調、語の流れ、音感、語感等は歌を読み込むうちに自然と会得すべきものなのでしょうか。それとも基本がなっていないがために理解出来ないのでしょうか。
ご指導宜しくお願いいたします。

作歌は、才もありますが、何より慣れでしょうね。書かれていますように「短歌としての(定型の)節調、語の流れ、音感、語感等は歌を詠み込むうちに自然と会得」すべきものですね。(他人(ひと)の)短歌集をたくさん読んで鑑賞することも必要でしょうし。その場合、一人の歌人の歌集を集中して読むか、なるべく色々な歌人の歌集を読むか、ですが、わたしとしてはあとの方を勧めますね。歌から離れて、読書されることも役立つでしょう。これはされている?

「短歌って何?」

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短歌って一体何かしら?作歌をしていると時々行き詰まってしまうこともあります。言葉の流れが良ければ良い短歌?それだけではないようですね。

短歌は定型詩であり、そのリズムが生命ですから、言葉の流れももちろんスムーズであらねばなりません。しかしそれは一要素。あまり流れ過ぎては歌が軽くなってしまう。(内容が軽いものならそれ相応ですがね。)歌材によってはむしろあまりスムーズに流れない方がいい場合もあるのです。あくまでも歌の内容に依存します。まず、歌材の選択ですね。語感なども大事ですしね。どんどん詠み込まれれば、自然に解ってくるものがあります。叙情詩と叙事詩。特に前者は語の選択、リズム、語感の心地よさ、余韻の含ませ方など、大切です。後者は、ともすると、内容に引きずられて散文的になり勝ちですが、そこを踏みとどまって、短歌としてのリズムは失うべきではないです。それがなかなか難しく、内容はいいことを捉えていても、歌になり切っていない歌をたくさん見掛けます。
 なお、心理詠などもあります。これは一段と作歌がむつかしいが。
 天才肌の人ならともかく、一般論として、たくさん詠んで、また他人の作品もたくさん読んで、短歌というものに慣れるよりしようがありませんね。すぐれた文章力のある作家の小説をたくさん読むことも役に立つ筈。焦らずにボチボチと、頑張ってください。Slow and steady win the race!まあ、短歌をやることは勝つことではありませんが、あくまでも比喩ということで。
(2002/08/21


九里多郎さんもこんな歌を作られたことがありました。

 「自信なく動詞入れ替え詠み直す秋の夜長の刻過ぎてゆく」(九里多朗さん2002/09/22

短歌は 5?7?5?7?7の定型にきっちり収めるのが基本ですが、全体のリズムあるいは調べとか、無理に定型に収めると窮屈な感じになる場合やゆとりを持たせるために字余り、稀ですが字足らずにすることはありますし、悪くありません。ましてや、文法とか語法上に誤りを犯してまで定型を守ることは宜しくありません。短歌は何よりも「言葉が命」です。言葉上の約束を先ずことが大切と言えます。それを守るために止むを得ず字余りになることもよくあります。しかし、そのときでも、全体的な語調から、字余りがあまり気にならないように、工夫することが普通でしょう。こうしたことは、たくさんの歌を詠み込まれることで自然に出来るようになるものと思われます。何事にも「慣れ」というものがありますから。急ぐことはないと思います。(以上は、もちろん定型短歌を前提とした論です。)

初句「自信なく」はどうでしょう。(これは言われなくても・・・)


添削:
「幾たびも動詞入れ替へ詠み直し長き秋夜も刻はやく過ぐ」   (九里多朗)

真剣に短歌に取り組もうとするには随分難しい事ですね、前記でのべたように只三十一文字並べれば歌になると云う安易な考えでは何時まで、たっても上達しない事に気がつきました。

それはそうでしょうね。少しは上手く詠もう、という意識も(短歌にあまり慣れていない間は)必要でしょうね。

 それから「あおぎりさん」に伺いますが私のように実際に体験したり見たりした事を歌材にしてしか歌の作れない不器用な人間は進歩しないのではないでしょうか、最近の自分の作品を読むだびに、つくつく拙さを思い知らされています。もっと基本的な事を忘れて歌作りをしているように思います、教えて下さい。

いや、多朗さん、結構いい歌を詠んでこられましたよ。歌作りは「実際に体験したり見たりした事を歌材に」することが基本ですから。それは決して不器用ということではありません。たしかに、同じ歌材を詠むにしても、色々切り口があり、したがって種々の詠み方がありましょう。「もっと基本的な事」と言えば、他の人の短歌作品をたくさん読むことで、歌の調べとか節調とかに慣れるとともに、たくさん作歌する(歌を詠む)ことで自分の調べを獲得すること、また文章力のある小説家の作品を(散文ですが)多く読むことで、人を納得させる語の流れを感得するとともに、語彙を増やすこと、などが考えられます。短歌を始められたこと、そのこと自体が多朗さんには歌才があることを示しているわけですから、焦らず、ゆっくりじっくりと、永く作歌を続けられれば、短歌というものに自然に慣れられ、多朗さん固有の短歌作品が出来るようになるはずです。いや、これまでも正直おやっと思わせられるお作が結構ありましたよ。

 こうしたこともそうですが、「上達する」ことは考えることなく、ただ歌に慣れ親しみ、楽しむ、という気持で短歌をやることもできますね。こうした気持でやられればいいのではありませんか?作歌が苦痛では、本来の意味がなくなります。楽しんでやってください。「上達」がなんですか。それを意識することなく、楽しんでやっているうちに、「上達」しているものではありませんか?

須美さんの次の歌は短歌とは何かを教えてくれるような気がします。

「苦しきを夫にも友にも言えぬとき歌は吾を救ってくるる」(山口須美さん2002/09/19

作歌は非常に個人的営為ですから、つまり作歌する人の心の内部世界にのみとどまる思考作業ですから、こうしたご心境はごもっともだと思います。時には、このお歌のように、心の空洞を埋めてもくれます。作歌は立派な創作活動であり、「短歌」という「もの」をつくる「もの作り」作業の一つであります。もちろん、短歌は人の情緒・感情・感性つまりは心に関わり、人の心に訴え揺さぶり、つまりは感動させる「無形のもの」ですが。何であれ、何かを新たに作り出すこと、これは人として最も大切な営為の一つであり、それゆえ誇りとしてよいことだと思います。

添削:「苦しきを夫にも友にも言へぬとき短歌はわれを救ってくるる」   (須美)

かすみさんが短歌って何かしら?と談話室に書かれました。

伝統的短歌、現代的短歌、文語体、口語体、英語等々、俳句のような約束事の何も無い形態のまま自由に展開されている三十一文字とは何なのでしょうか?創作の道総ての芸域に通じると思いますが、作品は創る者と読み取る者との感性や価値観が、その水準は違ってもお互いに同じ領域に在って、はじめて共感を呼び価値を認められると思うのですが・・・。
時代と共に人の価値観,感性も多様化して何が良いものやら悪いやら、雲を掴むようです。短歌とは一体、何なのでしょうか。感性の世界だから数学や科学のように究極の答が出ない分野なのは判っているのですが・・・結局は自己満足で終止符が打たれるのでしょうか。(かすみさん
2003/02/07

それについてあなたはお返事を書いてらっしゃったのですがうっかり消去してしまわれた・・・

「『短歌とは何ぞや』と問ふその声は真摯に心を詠みきたる女(ひと)」   --梧桐


「解釈を容(い)れざる歌あり語に拠りて幾多の解釈強ふる歌あり」 --梧桐

古くから受け継がれて来た格調の高い定型短歌の韻律は、原風景のように私の奥深くに存在しています。多分これからも此の響の外に出ることはないでしょう。その一方で感動を飛躍させた表現を詩情に包んだ現代的短歌にも心惹かれます。以前のことですが、歌集を幾冊も出し斬新な詠風の現代短歌で活躍の或る歌人が、最近になって若い人たちに人気の口語短歌の女流歌人の歌を「あれは短歌でない!」と云いきっていました。新旧交代は日常茶飯事の世の中だから、短歌か否かはやがて時間が解決するのでしょう。良いものが残ってゆくのは過去の歴史が照明していますから。

自分の感性を信じ、琴線に触れる作品の良いところどりをしつつ詠みついでゆけたら・・今はブランクでさっぱりです。なにしろ短歌を齧り始めて間もない嘴の青いひよっ子で体力がないものですから。(かすみさん 2003/02/12

かすみさんだけでなく私も、そして恐らくは皆さんも同じような疑問を持たれ。。。。そして自分なりに解決していくのかもしれません。。。。

うっかり消去した書き込みは次のような主旨であったと、思い出しながら再度書いてみました:?

短歌について、個々人が「短歌とはこういうもの」というある程度の認識を持つことは止むを得ませんし、悪いことではないでしょう。むしろ持つべきだとさえ言えますね。ただ、同時に作歌の無限の可能性も認めていきたいものです。それが成功しているかどうかは、個々の作品について一人一人が判断することです。短歌とは何か、を問い詰めれば、それは個々人の感性が捉える感動の表白であり、基本としては古来から在る5?7?5?7?7という定型の短詩としてそれを表現したものである、と。それでもなお、何を詠むかということと相まって、その表現方法なり様式には無限の可能性があり、そこに個々人の個性が発揮される余地が出てくるわけですね。さらに、我々はそれまで生きてきた、そしてまた現に生きている環境に支配されており、それゆえに歌には時代性も反映されてくることが多し、また個々人に固有の内容が盛り込まれることもままあるわけです。流行と不易、また個別性と普遍性、これらの相矛盾する要素が渾然一体となって一首一首をより高い次元へ昇華・止揚できることがひとつの理想かもしれません。しかし、それはもはや短歌道だけのことではありませんね。 歌が出来なくなったとき、こうした基本の基本に立ち返って考えることは、「行き詰まったら原点に還えれ」という、短歌に限らずすべての道に共通な教訓にも合致していて、とてもいいことだと思います。「自分の感性を信じ、琴線に触れる作品の良いところどりをしつつ詠みついでゆけたら・・・」と言われる、それはかすみさんの作歌に対する真摯な態度として貴重であります。悩む時は徹底的に悩めばいいわけですし、そのうち悩むことにも飽きてきますから、そうしたらまた歌が自然にできるようになることと思います。
 以上、以前のかすみさんの問いに対する回答もいくらかは含めることができたように思いますが。。。
2003/02/15

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