作歌の姿勢や手法の最近のブログ記事

本歌取りとは?

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「かなかなとかなかなかなとかなかなとかなかな蝉はけふを仕舞ひぬ」(がんてつ)
このように纏めて読み返してみましたら、何処かで見たような?読んだような?そこで、 先生!良く耳にする「本歌取り」と「盗作」の違いを教えてください。「本歌取り」が何であるのか、いまひとつ理解できていません。 どうぞ宜しくお願いします。

パソコン不調で添削が遅れました。悪しからず・・・m(_._)m。
個性とか独創性とかにうるさい現代的センスでは、いにしえの「本歌取り」は大概盗作(剽窃)ととられそうですね(その当時は、 一つの作歌法であったわけですが)。今では、いにしえの「本歌取り」の和歌は、歴史的なものとして受け取り、現代的センスでの「盗作、 剽窃」といった判断はしません。あの当時では、(先人の歌をたくさんよく知っているという意味での)教養とか、 作歌力を養うひとつの手段としての意味はあったわけですね。あるいは、お遊びを主とする歌会では、著名な歌の「本歌取り」は許され、 逆に推奨されもしましょう。ですから、自作を提示する場にも関係しますね。 特徴的な表現の大部分をそっくり使うとか、 それに似せた語法をまるまる使うとか、使う言葉は違っても、 本歌を歌たらしめている表現方法、語法、思想、 詠いぶりなどをそっくり利用しても、(本歌を)真似た歌だ、と言われそうです。逆に、 まったく同じ言葉(句)を部分的に使っても、 まったく別のことを表現しているような場合は、 そこに創意が感じられる限りにおいて、「本歌取り」 ととられても盗作とはとられないでしょうね。 歌を読む側の受け取り方(読み手の側の個人差)にも依存する、微妙な問題ではあります。 ここでは、 そういうことにあまり捉われることなく、伸び伸びとお詠み下さい。

添削:
「かなかなかなかなかなかなかなかなかなかなかなかな蝉が日を閉づるかな」(がんてつ)

(区切り方は「かなかなかな かなかなかなかな かなかなかな かなかな蝉が日を閉づるかな」

ほのめかし、と、あいまい

「淡き藍快晴の空おおいける小さき雲を吸い尽くさむと」(夕夏)
「あわきあいかいせいのそらおおいけるちいさきくもをすいつくさむと」(夕夏)
短歌を始めてから半年程度、文法も得意ではないので、見よう見真似のものです。 よろしくお願いします。
 
一首目で「おおいける」は「覆い(ひ)ける」のおつもりでしょうか?また、 歌意は晴れた空が小さな雲を吸ってしまうようだ、ということですか?ちょっとしっくりしませんが・・。快晴の空が淡い藍だとは?また、 空を覆うか、空が覆うか、ですが。前者なら空を何が覆うのか、また後者なら空が何を覆うのか、ですね。あいまい表現になっていますね。 今一度推敲されませんか?

「淡き藍早春の空染め抜きて小さな雲は翳み始めむ」(夕夏)
ちょっと推敲してみましたが、淡い青空と小さな白い雲を見ての感想ですので、あまり代わり映えがしないと思います。 題材が悪かったのでしょうか、それとも観察力が足りないのでしょうか。表現力は限られていますので。 快晴といっても霞んだような空でしたので、早春の空に代えました。この時期の雲は、太陽の陽差しで消えてしまうので、 このような感じかなと思います。よろしくお願いします。


 「この時期の雲は、太陽の陽差しで消えてしまう」・・そうですね。 雲の種類にもよりますが、薄い雲はいつしか消えています。「表現力は限られています」とのことですが、初心の間は往々にしてそうです。 そのため歌だけでは真意が伝わらない場合が多いので、説明文としての添え書きをして戴いています。この歌、何を詠おうとされたのでしょうか? (添え書き含めて)何度読んでも、(歌以前に)日本語としても意味不分明ですが・・・?散文でなら、詠まれたいことを書けますね?ご説明を・ ・・。

久々に暖かくなり庭に出てみますと空には雲一つ無い淡い青、 太陽の陽射しもちょっとまぶしく目を伏せてしまい改めて見ますと小さな白い雲が目に入りました、始めは無かった様に思ったのですが、 以前雲ができる光景も見たので、出来たばかりかなと思いました、この陽気ですとすぐに消えてしまいそうだなとも思いました。淡き藍(愛) 当然掛詞は考えました。元々性格的にきっぱり、詠める性格ではないので、曖昧な詠みが多いです。文も上手に書けるほうではありませんし、 話しも下手です。今は自己流で詠んでおります。やはり、上手く書けませんね。

「曖昧な詠みが多い」とのことですが、ほのめかし、と、あいまい、 は全然違います。あいまいでは伝えたいことが読者に伝わりません。それでは短歌にならないのです。ほのめかしなら、 読者の方でいろいろと忖度も出来、それなりに歌になります。もう一度、ご投稿の自作短歌を読んでみて下さい。 (短歌という以前に)一体何を言っているのか、日本語になっていないですね?(前衛短歌でさえ、 読めばある種のイメージが読者に浮かぶものです。また、それが狙いの作でもあります。)

区切れ

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「秀吉にゆかりの深き黒金糯雄の老樹なり秋空に伸ぶ」(広)
秀吉が朝鮮に勢力を伸ばすため当地まで出かけた際に同人から授かったクロガネモチだそうです。老樹ながら今も立派で県指定の文化材です。これまで添削を受け,4句切れがいいかなと思い字余りながら作りました。

十六世紀の末の方になって政治的最高権力者になった秀吉は、気宇壮大な領土拡張構想を練り上げていたようですね。国境というものが今ほど明確ではなかった当時、ヨーロッパ列強がそうしたように(彼らは東南アジアまで触手を伸ばして来た)、日本とて周辺の国々への進出を考えることは、あながち無法ではなかったのですね。朝鮮半島経由で(当時の)明国に攻め入り、政権を獲得して、北京に天皇を迎え、自分はもっと海岸よりの都市に政庁を構え、天皇よりさらに上の皇帝としてアジアに君臨しようとした(後の大東亜共栄圏に相当するような組織体の構築を考えていたらしい)。その意気やよし、です。当時すでに明国は弱り果てていたので、全くの誇大妄想でもなかったのですね。ただ、他国へ侵攻するにしては戦闘準備が十分ではなかった、兵はたちまち疲弊してしまった。かくて惨めな退却を余儀なくされた・・・。

添削:
「秀吉にゆかりの深き黒金糯いま老樹として秋空に聳ゆ」(広)

 なお、四句切れが良い、というわけではありません。その歌にはそれが良い、ということです。歌ごとに考えるべきことです。本来は、短歌はひと息に詠み下すのが理想ですね。ただ、短歌にはまた、色々な形式に対する順応性があるということです。どんな形式であれ、それなりの必然性が感じられなければならないでしょう

作歌の姿勢や手法

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「咲き誇りしむくげ衰え蕭条と茶室に雨の降る音を聴く」(宋見)
今日の茶花を考えて、夏の茶花「むくげ」がひとまわり小さくなり衰えを感じ、さてどう活けようかと茶室の外の秋雨の音を聴きながら考えております。いつも親切なご指導有難う御座います。
私の歌は感情移入が過多で修飾が多すぎるのかな、もっと冷徹な眼で現実を見つめ余計なものを削ぎ切った真実を伝えなければいい歌は詠めないのだろうかなどとかんがえこんでおります。如何なものでしょうか。

槿ももうおしまいですね。「蕭条と茶室に雨の降る音を聴く」ですと「蕭条と」が雨の降る様子の形容ととられ、「蕭条と茶室に雨の降る 音を聴く」と繋がりそうですね?なお、作歌の姿勢なり手法の件ですが、色々と試みられて自得されるしかないと思います。もっとも、宋見さんに関しては、それほど考え込まれることはないと思いますが。

添削:
「咲きほこりし槿おとろへ蕭条と降る雨の音茶室にこもる」(宋見)

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