写生歌の最近のブログ記事

「白萩のベールが包む彼岸花燃ゆる赤さへたをやかに見ゆ」(紗柚)
根に毒を持ち真っ赤な色をした彼岸花は単独で見ると強烈な印象を与えますが白萩に覆われてぽつんと咲く姿は可憐でたおやかに見えました。

「死びと花」「根腐れ花」などども言われ、墓地で咲いているのがよく見掛けられるため、だけではなく、「根に毒を持つ」ので、あの華麗さにも拘わらず、彼岸花(別名は曼珠沙華)を嫌う人が多いのですね。一方で、古く「赤い花なら曼珠沙華・・・」と歌われ、山口百恵にも<曼珠沙華>という歌がありました。曼珠沙華は<天上に咲く花>という意味だそうですし。この花ほど明と暗の両面を持った花は他に無いでしょうね。このお作では好意的に見ておられます。「白萩のベールが包む」という表現は工夫されたのでしょうが、却って解かりにくくなりました。

添削(改作):
彼岸花の燃ゆる真紅をこぼれつつ載る白萩がたをやかに見す」(紗柚)

写生歌

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「仁和寺の石畳打つにわか雨 小さき弧を描きしぶきに変わる」 (山紫水明さん2003/03/12

このような平凡な景色は題材として不向きなのでしょうか? 写生歌を作る度に、「ただ目にした風景を説明してるに過ぎない」という思いにいつも駆られます。この場面では降ってきた雨粒が跳ね返って、円弧を描きながらしぶきになって消えてゆくのを何とはなしに「きれいだな」と思ってみていた記憶から作ったものです。

写生歌なら、読んでその情景が目に浮かばなければなりますまい。この歌では後半がイメージ的にちょっと解からないところが惜しいと思います。確かに写生歌は目にした情景を詠うだけのようですが、歌にするにはそれなりの契機があるはずで、つまり感動ですね。この景色を詠おうと思われる、それはその景色に感動されたからに外ならず、写生することでその感動を伝える訳でしょう。また、背景にその時の心理的な状況が重なることも多く、正直に写生することで、しばしばそれも伝わる、ということですね。また、写生歌の形をとりながら、むしろ内面的心理的感情的、つまり思いあるいは心の有り様一般を伝えることもありますしね。対象に深く感情移入するところまで行けば、おのずからそうならざるを得ないでしょう。
 この歌では、
大変小さな事象が目に止まり、つまりそれに感情が揺れ動いて歌に詠まれた、その心的な契機は何か、この景色そのものと共に、読者は考えさせられるところもありましょう。単に歌材を求めただけだ、と水明さんは言うかもしれませんが。。。歌の心とは本来そういうものだと言いたいのです。

添削:
「仁和寺の石畳打つにはか雨しぶきて小さき円弧を描く」 (山紫水明)


写生歌

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「川辺利に釣糸垂れて居眠りの父の魚篭には陽が射すばかり」(酔狂さん2002年7月10日

改作(梧桐):
「釣糸を垂らして居眠りする父の耳洗ひつつ清流ひびく」(酔狂)
あるいは、
「居眠りする父の釣糸風に揺れ小道具むなしく春の陽を吸ふ」(酔狂)

写生歌

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「静かなる谿の夕暮れ山ざくら一きわ映えて緑に浮けり」(多朗さん2002年5月2日

夕暮にしてなお、ひと際緑に映える山桜。そのあたりに夕日が当っているのでしょうね。そう思うと、奥行きのある写生歌、と気付きます。
 この歌はこのままでいいですね。(強いて言いますと、文語歌ですから、「一きわ」は「一きは」です。また、結句は「浮かぶ」の方が据わりがいいでしょう。)

写生歌

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「夜に舞ふ蝶といはむか蝙蝠の影の如くにむれて飛び交ふ」(桐子母さん2001年9月28日

いい主題ですが、描写がもう少しです。特に「影の如く」が効果的ではありません。何かの影の如く、なら分かりますが。この場面では、蝙蝠そのものが影なんですね。そのように詠むといいわけです。また、初句の「夜」も、昔なら暗黒を連想したのでしょうが、現代はそうと限りませんね。ネオンまたたく夜もあるわけですので。

添削・改作(梧桐):
「闇に舞ふ群蝶と言はむ蝙蝠ら影のみ見せてはげしく飛び交ふ」 (桐子母)
これなら、蝙蝠の妖しい雰囲気も出ますね。

やわらかさを出す

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「一夏を咲き続けゐし百日紅秋空のもと青き実結ぶ」(すみえさん2001年9月28日

庭に白色のさるすべりがほんとうに百日咲くように、ずっと咲いていました。歌を作るようになるまでは無頓着で、恥じいるばかりですが、一夏中咲いていることも気がつきませんでした。ただの写生ですが、自分が感動した事でしたので詠みました。

ははは。ただの写生ですか。単なる状況報告歌と活きた写生歌は違いますね。写生歌の場合、感動があって写生をするわけですから、対象を活写することでその感動が読者に伝わるわけです。要するに、歌に感動の裏付けがしっかり籠もっているかどうかで、単なる写生歌あるいは状況報告歌の類か、すぐれた短歌かの差が出ます。また、単に写生と見えて、その実は作者の人生観などが裏に込められていることもありますね。短歌も色々です。

添削・改作
「ひと夏を白さるすべり咲きとほし いま秋空に青き実むすぶ」 (すみえ)

いい写生歌ができました。(これも状況次第ですが、やわらかさを出すため、漢字の羅列はなるべく避けるようにしました。短歌は三十一音をあまり切らないでひと息に書き下すのがいいのですが(これも状況次第ですが)、読みやすくするために、「咲きとほし」と「いま」の間に、(全角ではなく)半角分の空白を入れました。)
このように、作歌というものは色々こまごまとした配慮をするものです。まあ、作歌に慣れてからでいいのですが。

写生歌

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短歌を始めて作ろうとすると、まず今日見てきた綺麗な景色やお花のことなどを歌にしたくなりますね。そんな写生歌の作歌のポイントは?

写生するにはそれなりの動機があるわけです。つまりその情景になんらかの理由で感動し、短歌の形にしてそれを読者に伝えたいという動機があるわけですから、動機の質と、短歌に詠みこむ時の工夫で、単に写生と見える短歌にも読者は十分感動を覚えるものです。それがかってのアララギの人たちが主張した「写生歌」ですね。物を生き生きと写して、もってその背景にある情感なり感動を伝える、という極意です。

「川辺利に釣糸垂れて居眠りの父の魚篭には陽が射すばかり」(酔狂さん2002年7月10日

改作(梧桐):
「釣糸を垂らして居眠りする父の耳洗ひつつ清流ひびく」(酔狂)
あるいは、
「居眠りする父の釣糸風に揺れ小道具むなしく春の陽を吸ふ」(酔狂)

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